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全体性と無限 (上) (岩波文庫 青 691-1) 文庫 – 2005/11/16
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西欧哲学を支配する「全体性」の概念を拒否し,「全体性」にけっして包み込まれることのない「無限」を思考した、レヴィナス(1905―1995)の主著。暴力の時代のただなかで,その超克の可能性を探りつづけた哲学的探求は,現象学の新たな展開を告げるものとなる。
- ISBN-104003369114
- ISBN-13978-4003369111
- 出版社岩波書店
- 発売日2005/11/16
- 言語日本語
- 本の長さ462ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2005/11/16)
- 発売日 : 2005/11/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 462ページ
- ISBN-10 : 4003369114
- ISBN-13 : 978-4003369111
- Amazon 売れ筋ランキング: - 141,899位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 111位フランス・オランダの思想
- - 918位岩波文庫
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年10月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
受け取りました。息子が大学の授業のために読むそうです。すぐに送っていただけて喜んでおりました。私はフッサールで学びましたが、時代が違うのですかね。
2016年6月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、どうもデリダの「友愛」に似ている思想が含まれていると思って読んでいたら、熊野純彦の解説では、本書に記述されている悪の起源等をデリダに批判され、その結果、世に埋もれていた本書が見出されたとのこと。デリダはレヴィナスの思想を批判すると同時に、レヴィナスの思想を受け入れ展開したようである。レヴィナスの私と他者の考え方の出発点とその途中までは同感することができるけれども、他者の顔や他者を向かい入れる考え方にはすぐさま同感できるものではない。なお、レヴィナスはフッサールの現象学的手法を用い、ハイデガーの存在論の影響を受けながら、その批判を通じて本書を記述している、いわば存在論が根底をなして展開している哲学者である。
本書は、「序文」、第一部「〈同〉と〈他〉」、第二部「内部性とエコノミー」、第三部「顔と外部性」、第四部「顔のかなた」、そして「結論」から成り立っている。熊野純彦はレヴィナスの文章を美しいと称していたが、確かに一部には詩的なとこともあるが、デリダと同様に基本は、ぱさぱさし乾いた散文である。特に第一部では、レヴィナスは初めて読むせいか、超越、語りなど、いろんな哲学的な言葉が定義なしに使われてよく分からない。第二部以降は思想を展開し明瞭に書かれていて分かりやすいが、一部分からないところもある。長文なので少し読み飛ばしている影響もあるのかもしれない。なお、「全体性と無限」における「全体性」とは個体に対する支配概念であって、『戦争において存在が示すことになる様相を確定するのが、全体性という概念である』(上15頁)と述べている。「無限」とは「全体性」からの超越としての概念であって『他者は現前すると同時にまた到来するものであり、無限なものの次元とは他者の顔が開く次元なのである』(下101頁)この引用に基づく通りに、本書の記述内容は「全体性」を否定し、「無限」な次元を希求することになる。
本書の「序文」における出だしが、道徳と道徳を宙づりにする戦争状態から始まるのは注意深い。レヴィナスは1906年にロシアに生まれ、ユダヤ人として悲惨な戦争を経験していることが出発点となっている。こうして結局、彼は道徳を保持するために政治を語ることの必要性を説くのである。無論、その過程に顔を持つ他者なる存在者を含めた存在論があると考えれば良いはずである。
第一部「〈同〉と〈他〉」では、形而上学的な渇望は、見知らぬ自己の外部、絶対的に他なるものへの渇望なのである。こうして他なるものを、レヴィナスは〈同〉と〈他〉の思考に基づいて、〈私〉と〈他者〉とを語りと超越の関係にて捕えて論じている。語りは〈私〉と〈他者〉とのあいだの隔たりを維持する。そして、この隔たりは個体に対する支配概念である全体性を再構成することを妨げる根本的な分離なのである。また〈他者〉は〈私〉を超越している、この超越こそが〈私〉と〈他者〉との分離を要請しているのである。なお、超越は「思考」と「内部性」によって生起する。つまり、レヴィナスは「思考」と「内部性」を存在の裂け目そのものであると述べているが、これを持つ〈私〉を起点として、初めて存在のうちに他性が生起してくるのである。言い換えれば他性が生起するために「思考」と一個の〈私〉が必要なのである。結局『超越は、私という実在から無限に隔たったひとつの実在との関係をさし示している』(上58頁)のである。こうしてレヴィナスは、存在論、感覚作用、分離と語り、真理と正義、分離と絶対的なものを論じていくのである。
第二部「内部性とエコノミー」では、社会的な関係の重要性を指摘し、生としての分離、享受と表象、〈私〉と依存、住まい、現象の世界と表出と題して述べている。第三部「顔と外部性」では、顔の顕現によって特徴づけられる感覚的な経験を主テーマに、顔と感受性、顔と倫理、倫理関係と時間について述べている。第四部「顔のかなた」では、〈愛〉の両義性、〈エロス〉の現象学、多産性、〈エロス〉における主体性、息子であることと兄弟であること、時間という無限なものと題して述べている。最後の結論の章では、渇望からの他者に向かう関係、家族、そして国家などについて論じている。重要な思想は「多産性」と「他者の向かいれ」であろう。それは〈私〉と〈他者〉が〈私たち〉となって、国家を、制度を、法を希求することである。詳細は省略。
確か、ドウルーズもミシェル・トゥルニエ作の「フライデーあるいは太平洋の冥界」を通じて、また他の著書でも他者を論じていたはずである。その他の哲学者にも、他者なる概念は、例えばサルトルのように、まなざしの相克として捕えるなど結構ある。レヴィナスの他者論を他の哲学者の考えと比較し論じことは、結構面白いかもしれない。最後に、レヴィナスの若き日の著書「実存から実存者へ」は既に読んでいるが、文章も内容もとても良いのである。存在が悪性を抱えていないかとの問いが初めにきて、存在を論じている。この存在論はハイデカーやサルトルを凌いでいると私には思われる。本書はこの存在論に基づいて、更に思想を発展させたものである。
以上
本書は、「序文」、第一部「〈同〉と〈他〉」、第二部「内部性とエコノミー」、第三部「顔と外部性」、第四部「顔のかなた」、そして「結論」から成り立っている。熊野純彦はレヴィナスの文章を美しいと称していたが、確かに一部には詩的なとこともあるが、デリダと同様に基本は、ぱさぱさし乾いた散文である。特に第一部では、レヴィナスは初めて読むせいか、超越、語りなど、いろんな哲学的な言葉が定義なしに使われてよく分からない。第二部以降は思想を展開し明瞭に書かれていて分かりやすいが、一部分からないところもある。長文なので少し読み飛ばしている影響もあるのかもしれない。なお、「全体性と無限」における「全体性」とは個体に対する支配概念であって、『戦争において存在が示すことになる様相を確定するのが、全体性という概念である』(上15頁)と述べている。「無限」とは「全体性」からの超越としての概念であって『他者は現前すると同時にまた到来するものであり、無限なものの次元とは他者の顔が開く次元なのである』(下101頁)この引用に基づく通りに、本書の記述内容は「全体性」を否定し、「無限」な次元を希求することになる。
本書の「序文」における出だしが、道徳と道徳を宙づりにする戦争状態から始まるのは注意深い。レヴィナスは1906年にロシアに生まれ、ユダヤ人として悲惨な戦争を経験していることが出発点となっている。こうして結局、彼は道徳を保持するために政治を語ることの必要性を説くのである。無論、その過程に顔を持つ他者なる存在者を含めた存在論があると考えれば良いはずである。
第一部「〈同〉と〈他〉」では、形而上学的な渇望は、見知らぬ自己の外部、絶対的に他なるものへの渇望なのである。こうして他なるものを、レヴィナスは〈同〉と〈他〉の思考に基づいて、〈私〉と〈他者〉とを語りと超越の関係にて捕えて論じている。語りは〈私〉と〈他者〉とのあいだの隔たりを維持する。そして、この隔たりは個体に対する支配概念である全体性を再構成することを妨げる根本的な分離なのである。また〈他者〉は〈私〉を超越している、この超越こそが〈私〉と〈他者〉との分離を要請しているのである。なお、超越は「思考」と「内部性」によって生起する。つまり、レヴィナスは「思考」と「内部性」を存在の裂け目そのものであると述べているが、これを持つ〈私〉を起点として、初めて存在のうちに他性が生起してくるのである。言い換えれば他性が生起するために「思考」と一個の〈私〉が必要なのである。結局『超越は、私という実在から無限に隔たったひとつの実在との関係をさし示している』(上58頁)のである。こうしてレヴィナスは、存在論、感覚作用、分離と語り、真理と正義、分離と絶対的なものを論じていくのである。
第二部「内部性とエコノミー」では、社会的な関係の重要性を指摘し、生としての分離、享受と表象、〈私〉と依存、住まい、現象の世界と表出と題して述べている。第三部「顔と外部性」では、顔の顕現によって特徴づけられる感覚的な経験を主テーマに、顔と感受性、顔と倫理、倫理関係と時間について述べている。第四部「顔のかなた」では、〈愛〉の両義性、〈エロス〉の現象学、多産性、〈エロス〉における主体性、息子であることと兄弟であること、時間という無限なものと題して述べている。最後の結論の章では、渇望からの他者に向かう関係、家族、そして国家などについて論じている。重要な思想は「多産性」と「他者の向かいれ」であろう。それは〈私〉と〈他者〉が〈私たち〉となって、国家を、制度を、法を希求することである。詳細は省略。
確か、ドウルーズもミシェル・トゥルニエ作の「フライデーあるいは太平洋の冥界」を通じて、また他の著書でも他者を論じていたはずである。その他の哲学者にも、他者なる概念は、例えばサルトルのように、まなざしの相克として捕えるなど結構ある。レヴィナスの他者論を他の哲学者の考えと比較し論じことは、結構面白いかもしれない。最後に、レヴィナスの若き日の著書「実存から実存者へ」は既に読んでいるが、文章も内容もとても良いのである。存在が悪性を抱えていないかとの問いが初めにきて、存在を論じている。この存在論はハイデカーやサルトルを凌いでいると私には思われる。本書はこの存在論に基づいて、更に思想を発展させたものである。
以上
2008年4月26日に日本でレビュー済み
「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。(ヨハネの黙示録3:15より)」
レヴィナスの思想を煎じ詰めると、聖書の一節へとたどりつくような気がします。
しかも冷たいこと(=生存)が、そのまま熱いこと(=幸福)であると……。
「生とは生への愛であり、私の存在ではないけれども、私の存在よりも貴重な内容との関係である」
「生の現実はすでに幸福という水準のうちにあり、その意味で存在論のかなたにある」
「じじつ、生きているという単純な事実によって、私たちはすでに幸福のうちにある」
終始一貫哲学書の範疇を逸脱しないにもかかわらず、生きる力を与える一冊です。
レヴィナスの思想を煎じ詰めると、聖書の一節へとたどりつくような気がします。
しかも冷たいこと(=生存)が、そのまま熱いこと(=幸福)であると……。
「生とは生への愛であり、私の存在ではないけれども、私の存在よりも貴重な内容との関係である」
「生の現実はすでに幸福という水準のうちにあり、その意味で存在論のかなたにある」
「じじつ、生きているという単純な事実によって、私たちはすでに幸福のうちにある」
終始一貫哲学書の範疇を逸脱しないにもかかわらず、生きる力を与える一冊です。
2006年1月17日に日本でレビュー済み
『レヴィナス入門』の著書もある熊野純彦氏による新訳。直訳的で素直な訳で読みやすい。というよりも、難解で読みにくいところでも正面から格闘できる。レヴィナスは読めんなぁ、とずっと思っていたけど、何とか読み通すことができた。序文と出出しの難解さに挫折する人が多いそうだけど、そういう人は、少し飛ばして第一部B以降の好きなところから読み始めると良いと思う。なんとか食らいつけるところを一つでも見つけたら、後はなんとか読み通せるはず。
文庫ということで、いつでもどこでも持っていける気軽さがとてもよい。訳注も充実で、いろいろ派生的な情報もたのしめる。何より、安い。ちくま学芸文庫の『実存から実存者へ』、講談社学術文庫の『存在の彼方へ』と合わせて、主著がすべて文庫で読めることとなり、レヴィナスがグッと身近になったことは大変喜ばしい。
文庫ということで、いつでもどこでも持っていける気軽さがとてもよい。訳注も充実で、いろいろ派生的な情報もたのしめる。何より、安い。ちくま学芸文庫の『実存から実存者へ』、講談社学術文庫の『存在の彼方へ』と合わせて、主著がすべて文庫で読めることとなり、レヴィナスがグッと身近になったことは大変喜ばしい。
2018年1月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
内容が難解である事もありますが、思想の遊戯のように思えます。
2008年3月14日に日本でレビュー済み
現代思想ってやつをとりあえず齧ってみるか、程度の軽い感じで手を出すのならば、
それはただただ無謀な試みなので、やめておいた方がいいと思う。
現象学の用語やら議論の系譜やらを一応把握しておかないことには、レヴィナスがそもそも
何をやっているのか意味がさっぱり分からないだろうし、「実存者から実存へ」という
「近代」あるいはそれ以前からの思想の流れを知らない人には、この『実存から実存者へ』の
書き手の「全体性」概念、「無限」概念なんて分かりようもないだろうから。
そういう前提を欠いていると、おそらくふんわりとしたムードの中で、ぼんやりと胡散臭い
ことを語っているようにしか見えないことだろう。
事実、かつての私がそうだった。
そのころに比べれば少しは賢くなった現在の感想としては、現象学を前提に論理を
組み立てれば、まあそれはそれでありなのかな、そうなるだろうな、とは思う。事実、
少ない前提から議論を組み立てることに関しては、驚くほど厳密にできてはいる。
ただし、その用具立てを承諾する限りで。
率直なところ、全体性マニアの私には耐えられるものではない。
それはただただ無謀な試みなので、やめておいた方がいいと思う。
現象学の用語やら議論の系譜やらを一応把握しておかないことには、レヴィナスがそもそも
何をやっているのか意味がさっぱり分からないだろうし、「実存者から実存へ」という
「近代」あるいはそれ以前からの思想の流れを知らない人には、この『実存から実存者へ』の
書き手の「全体性」概念、「無限」概念なんて分かりようもないだろうから。
そういう前提を欠いていると、おそらくふんわりとしたムードの中で、ぼんやりと胡散臭い
ことを語っているようにしか見えないことだろう。
事実、かつての私がそうだった。
そのころに比べれば少しは賢くなった現在の感想としては、現象学を前提に論理を
組み立てれば、まあそれはそれでありなのかな、そうなるだろうな、とは思う。事実、
少ない前提から議論を組み立てることに関しては、驚くほど厳密にできてはいる。
ただし、その用具立てを承諾する限りで。
率直なところ、全体性マニアの私には耐えられるものではない。